子どものレジリエンスを感じる活動

ちょうど世の中が阪神淡路大震災やサカキバラセイトと名乗る神戸児童連続殺傷事件で不安感が高まっていたあの頃、私はCAP活動を開始しました。CAPとは、Child Assault Preventionの略で子どもへの様々な暴力を防止するためのプログラムです。1978年にアメリカで開発されたプログラムが時を経て日本にも紹介され、全国にCAPスペシャリストと呼ばれる提供者が約2000人養成されました。そして、学校を舞台に教職員へ、保護者へ、そして子ども自身へとワークショップ形式で伝えています。「子どもの人権」を「暴力を受けずに生きる権利」という切り口は子ども自身も考えやすいようです。

 そのような市民活動の中で得た体験をレジリエンスという視点から書かせていただく機会を頂き大変感謝しています。

 

 CAPプログラムが対象としている年齢は、3歳~18歳の子どもたちです。彼らの年齢や発達に合わせた手法で子どもには安心・自信・自由の大切な3つの権利があることを伝えるところからこのワークショップはスタートします。3歳の子どもでも、この抽象的な安心・自信・自由という言葉を理解し、その言葉にマッチングしたエピソードや体験を話すことができることも、15年間の活動の中で実感してきました。

 子どもワークショップには最後にCAPスペシャリストと11で話す時間を設けています。子どもたちは相談というよりも、習ったことを復習するために話に来ます。しかし、暴力を受けずに生きることが子どもに大切な権利だと習ったことに驚き、語らずにはいられないと話にやってくる子どもも少なくありません。

 

 ある中学2年生の女子が相談に来ました。相談というより何かに突き動かされ、やってきたという感じだったことを覚えています。彼女は塾に帰り道に性被害を受けていました。そのことを誰にも言えずに過ごしてきたのだそうです。誰にも言わなかった理由を彼女はこう言っていました。「うちは母子家庭なんよ。だから、私が痴漢に遭ったことをお母さんに行ったら絶対、送り向かえをするって言い出すに決まっている。もう、お母さんは一杯いっぱいなんだから(時間的にも経済的にも)これ以上、心配も世話もかけられんやろ?」と。

 

 ある小学4年生の男子は、クラスを牛耳り、学年全体でもあの子には逆らわない方がいいと思われ、先生たちにも悪態をつき荒れ狂っていました。そんな彼がワークショップ終了後に相談というより、からかってやろうくらいの軽い調子でやってきました。少しずつ家のことを話に混ぜながら話していました。その話を黙って聞いている内に彼が言いました。「中学生の兄貴に毎日のようにボッコボコにされるんだ。でもさ、でもさ、無視されるよりマシやろ?」と。彼は子どもだけで夜の時間をすごさざるをえない環境の中で生活をしていました。ボッコボコに殴り蹴る兄貴かもしれないけれども、自分をある意味守ってくれるのもまた、その兄貴だけなのでした。この状況を誰にも言えず、学校では手におえない子どもとレッテルを貼られ日々、吹き出す問題に先生たちはただ手を焼いている状態だったのでした。

 

 ある5年生の女子が表情もなくやってきました。礼儀正しく一礼をして、私の前に座りポツリポツリと抑揚なく話し始めたのです。その話は突然マフラーを編んだ話から始まりました。「私のせいだと思う。私が悪かったんです。私が途中でやめたから。お母さんには編んであげたんです、マフラーを。お父さんにも編もうと思ったけど、まあいいかと思ってお父さんにマフラーを編むことをやめました。やめた私のせいなんです。」そう淡々と繰り返すのです。彼女のお父さんは自殺で亡くなったのでした。

 

 ある小学3年生の男子でした。学年の中でもひときわ小柄な子どもでした。おどおどとした様子でやってきました。弟や妹のことが心配だという相談でした。弟や妹が毎日泣いて暮らしていることを心配しての相談だったのです。よくよく聴いていると父親が母親を毎日のように〝いじめている″ということでした。そして泣いている母親を長男の自分は助けてあげられないのだと自分の力の無さを恥じていました。助けてあげられないどころか、年下の弟や妹の不安も受け止めてあげられないのだと。実際には、彼は夫婦間の暴力のとばっちりを受けて蹴られたり、壁に投げ飛ばされたりしていました。宿題をするどころの騒ぎではない毎日で、当然のように学校の勉強にはついていけない状況でした。そして彼が心配をしていた2つ年下の弟は、彼よりもずっと背も高く体格もよかったのでした。

 

 ある4年生の女子が勢いよくやってきました。憤りを感じていることは部屋に入ってくる様子からもうかがい知れました。ちょうど2月だったのでバレンタインのチョコレートが話題でした。最近は男子に贈るものよりも友チョコと呼ばれる女子の間で手作りチョコを渡しあう儀式が主流です。お互いに「友チョコをあげるね」と約束をしていたのだけれども、今となってはどうしても約束をしたその子に作りたくないし、渡したくないという相談でした。その子、と呼ばれるAちゃんは日和見的な存在で親友をコロコロ替えるし、親友として許せない態度をとるし、先生からの言いつけも守らないとお怒りのご様子です。そんな話を「なるほど、なるほど」と言いながら、ただただ聴いていると彼女は最終的に「そうよ、そうよね。私はあげたくないと思っているのに、あげなくてはいけないって思っていたんだわ。そうよ、あげたくないと思っている自分に嘘ついているからいけないんだわ。もういい。約束したのに、と言われたときのことを心配するのやめたわ。ありがとう、相談に乗ってくれて。」と言って来たときと同じように勢いよく帰って行きました。

 

 私たちはワークショップの中でこのようなたくさんの子どもたちの声を聴いてきました。これはほんの一部でしかありませんが、子どもたちは自分の置かれている状況を分析し、自分のできることを考え、そしていくつかのことを我慢しなければならないことへの覚悟を私たちに宣言してくれます。レジリエンスは可塑性・柔軟性とも呼ばれ、人が様々な困難や嫌なことに出会った時に自らそれを跳ね返す力です。確かに子どもと話をしていると、確かなレジリエンスの力を感じます。日々成長していく子どもが持っている、柔軟性であり回復力でもあり、生き抜く力でもあります。

 だからといって大人は子どものレジリエンスに甘えてしまっていいものではありません。大人は子どものレジリエンスを育む役割があるのですから、子どものレジリエンスを信じているというだけでは甘えになるのではないか、と常に自分を戒め、自分は大人の役割は果たせているかと自問自答しています。

だからこそ、レジリエンスを育み、発揮できるような機会を設けたいと活動を続けています。

 

 繰り返しになりますが、彼らは無力な人たちではありませんでした。どの子も感じていたことを語る時間と耳を傾ける対象者が存在しなかっただけなのです。積極的に聴こうとする大人と、聴こうとする時間と、場所と、語りだすのに必要なキーワードさえあれば十分に彼らは年齢に関係なく日常の中にある育ちを阻害するさまざまな要因を導き出し、整理し、今何が自分にとって必要なものかを語ることができるのでした。 

わずかな勇気

【わずかな勇気は、どこから?!】

以前、ユニクロの試着室の中で子どもを怒鳴り、叩いていた親子づれに隣の試着室から「息を吸って~吐いて~。そう、大丈夫~♬大丈夫~♬」と声をかけたら親さんの声のトーンが自然とやさしくなった話をFBにも投稿したし、講演の中でもちょっと話してみると、みなさんがあんまり、驚いた表情をしてお聞きになるので、私のほうが、驚いてしまう( ^ω^)・・・

人がカリカリしている時って、身体が緊張している、精神が緊張しているわけだから、ふっと力がぬけるような「きっかけ」があればいいだけなんですよね。

極端な例でいえば、視線がターゲットから他のものに移るだけでも違いますよ。

ガミガミ怒っている人のそばを通って物を落として「ああ、落としちゃった」くらいな独り言を言って通りすがるだけでもOK!

最も大事なポイントは「指導してやろう」という根性をなくすことです。

いつぞやは、スーパーの駐車場の階段の隅で中学生が先輩からプレミアなカードを取り上げられそうになっていました。近づきすぎると、むしろ緊張感を与えてしまうので、少し離れたところから「ねえ~もしかして、困っている???」と大声で聞いてみました。すると、カードを奪おうとしている中学生が「いいえ、大丈夫です。関係ないですよ」とのたまう。すかさず「あら、あなたには聞いていないのよ。ねえ、隣の君!今、困っている?? そっちに行こうか?」と再度、オープンに叫ぶ。すると、その子がこっくりうなづく。「OK! そっちに行くね」。相手は、いそいそともう用なしとばかりに、お帰りになりました。あとは、家の近くまでいっしょに歩いて帰りました。

また、ある時は、空いた電車の中で眠りこけた女性の胸をそばに立って覗いていらっしゃる男性がいたので、「彼女にご用??」とお聞きして、なさそうだったので、彼女のそばに座って差し上げました。

また、ある時は、ゲームセンターで女性のスカートの中を写真でお撮りになっている男性がいらっしゃったので、ダッシュで走りより、「ね、その携帯、見せて!」と手を指しだしたこともございました。

私は体格も普通。
声量は小さめ。
おばちゃんから、おばあちゃんの域に達している年齢。
運動能力はなし。
あるのは、わずかな勇気だけ。

大事にしていることは、誰か嫌な思いをしているときに、何事もなかったことのようにしない!!
ただ、それだけのモットー。

それは加害に至っている人にとっても安心できる材料なんですよ。誰も知らない顔をしない。誰もなかったことのようにしない。何か、の「きっかけ」

その「きっかけ」を人は掴んでどこかにつながっているんだろうと思うんです。

私もいつもいつも、できるわけじゃない。
でも、できるだけ、わずかな勇気をもてるように
身近な家族や、友人たちと、助け合える関係性を大事にしています。自分には傷ついても、途方に暮れても、誰かがついてくれているという実感なしには、「わずかな勇気」も出ませんから。

あなたの「いや」は大事だよ

子どもたちに、困ったときには誰に話すの?と質問をすると必ず、「ペット」「犬」という答えがかえってきます。決してふざけているわけではないのです。

ある小学2年生の男子でした。隣の家のチャッピーに話しかけるとかならず「黙って聴いてくれる」「最後まで聴いてくれる」「そして、うれしそうにしっぽを振って聴いてくれる」と教えてくれました。

子どもは聴いてほしいのです。聴いてくれるだけで、安心なんです。かけよっていった「あなた」がいてくれるだけで、微笑んで聴いてくれるだけで頭の中が整理されて、ホッとして、どうしようかな~って考える余裕ができて、うれしいんですよ。
私たち大人はついつい、がんばりすぎちゃう!助けてあげてしまいたくなる!

いいの、いいの。聴いてくれたらいいの。『相のソナタ』で聴きましょう。
そうなんだね~そっか、そっか…そんなことがあったんだね~
なるほど~~!!
確かに( ´艸`)

子どもが話にくるときは、あなたがバタバタしているときです。
あなたが安心していたら、子どもも安心だからよってきません。あの夕方から夜にかけてのバタバタとしている時だからこそ、あれこれと話したくなるのです。きょうだいがまとめて話に来ます。ひとりひとり話してくれたらいいものを。一度に話します。

いいの、いいの。まとめて聴きましょう。だいたいで聴きましょう。その繰り返しで、子どもは喜んで聴いてもらえるという安心をもらうのですから。その繰り返しで、本当に大事な時がつかめるようになるのですから。

犬のように聴こう。
相のソナタで聴こう。


思春期の君へ

何者かに、ならなくていい。
キミはキミになればいい。

 

自分がわからなくなるのは
当たり前。なぜなら
いま、自分を創っている途中だから…♡

対子ども

あなたが隣の人にしないことは、子どもにもしない。

たったそれだけのこと。
たったそれだけのことを、相手が子どもだから、という理由で子どもは侵害されてしまう。

結果、そんな存在だと学ばざるを得ない。

おかしいと思う自分を否定せざるを得ない。

周囲もまた、それを望んでしまう。

子どもは子どもというだけで人権を侵害されやすく、笑いながら孤立と戦わざるを得なくなってしまう。

あなたは隣の人に可愛いから、気分がいいから、と言って勝手に抱きしめたり、勝手に頭をくしゃくしゃに撫でたりしないでしょ?

あなたは「あなたのためにならないからやってるのよ」と言いながら、隣の人の叩いたり、罰を与えたりしないでしょ?

人権は誰にでもあるもの。
でも、本当はないから学ぶのよね?
自分にもあるんだねって。

させる・あげるから伝わるもの

子どもと接する仕事をしていると、時々
「~~してあげる」
「~~させる」という「言い回し」をよく耳にします。

子どもは何もできない存在だから、おとなが「させる」「あげる」と言っているのならまだしも、子どもを一人の存在として敬意を払い、子どもの尊厳を大事にしたいと願っている人でさえ、「させる」「あげる」と安易ないい回しを使っている。そんな場面に出くわすと、ちょっとめげてしまう。

どこまで上から目線なんだろうか・・・
「優しい親」「優しい人」「優しい先生」???

いやいや、言霊とはよく言ったものだ。
言葉にこだわりすぎるのは良くないと思うが、
言葉にこだわるということは、理念や哲学でもあると思う。

どうぞ、皆さま
一度、気にしてみてください。
ご自分が小さき人や、弱っている人に対して「させる」「あげる」と使っていないかどうか。

自分が大病したり、大けがしたり、障害をもっていると
いかに「させる」「あげる」が「かわいそうな人」と烙印を押されたようで自尊心を傷つけられるか。それなのに、相手は善意だから言い返すことすらできない。そんな経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。

エンパワメントとは、「させる」「あげる」の正反対のアプローチ。
当事者が自分で選択し、決定できる環境を整えるアプローチだから。

ちょっとした意識から、自分のアプローチが変化するんじゃないかと
私は考えています。

 

子どもをたたくと・・・

どんな場面であろうが
どんなことをやろうが
どんな思いがあったとしても

子どもは叩かれると、「嫌われている」と
感じていることが、よくわかります。

私(私たちのNPO)は年間約6000人の子どもたちと
一人一人とワークショップ終了後に話します。

いろんなことを子どもが話してくれます。

両親が二人で台所に立っている姿を宿題をしながら
見ているとき、「仲良しだなって思ってうれしかった』とか…

おばあちゃんのお部屋に入ると
おばあちゃんの臭いがして、それだけでいい気持ちなるとか…

友だちに励まされて勇気が持てたとか…

でも、自分の不安を話す子どもたちも結構います。

きっと親は、子どもに良かれと思って
心を鬼にして叩いているんだろう(?!)と思うんです。

ところが、子どもたちは年齢や発達、性別の違い、
育つエリアにかかわらず、共通して、

親から嫌われているのではないか?!
親は自分のことを「悪い子」だと思っているじゃないか?!
自分がいないほうがいいと思っているんじゃないだろうか?!と
不安がっている、ということです。

さまざまな理論や臨床などから難しく体罰の影響を
話すことはできますが、子どもの気もちが一番、わかりやすいと思うのです。

親に嫌われていると感じるなんて、
残念ですよね。 親だって一生懸命に暮らしているのに、
本当に残念だと思うんです。

もっともっと、大人たちは
子どもに手をあげるという「行為」がもたらす
デメリットを知ってほしいですね・・・・・。

だって、子どもたちは
親に愛されたいんだもん。

あなただって、恋人に嫌われそうなとき
すっごく悲しかったでしょ?
不安だったでしょ?
さみしかったでしょ?
心が痛かったでしょ?

きっと恋人に嫌われる痛さの数百倍の
痛さじゃないかな_??

今、親たちに必要な情報は
「あなたは、自分が思っている以上に
子どもたちに 強く、愛されているよ」って
ことなのかもしれないな~と思うこの頃です。

赤鬼・青鬼全国連盟より

【節分に、ご注意?!】
鬼はそと~~
福はうち~~ (^^♪

すごく楽しみながら、家族の幸せと健康を祈る季節の行事です。

ちょっと老婆心ながら、注意を発令しておきたいと思います。

小さな子どもたちにとって、鬼さんは怖いもの。
本気で怖いんです。

だから「そんないたずらをしていると、鬼さんを呼ぶよ!」とか
「悪い子は鬼さんに連れて行ってもらうよ」とか
言われると夢にうなされるくらい怖いものです。

こわくないもん!というのは、怖いからです。

どうぞ、全国のおうちの方
保育園や幼稚園の先生方、子どもに効き目があるからと
節分という大切な行事を、濫用なさらぬように
ご忠告申し上げます。

~全国の赤鬼、青鬼連盟より~

子どもとつくる「いい時間」

よく叱られている子どもなんでしょう。
目立ちます。
黙っていられません。
よく動きます。
じっとしているのが苦手です。

でも、一所懸命なんです。
でも、うまく表現できないんです。
ほめられたくって
喜ばれたくって…かわいい人なんです。

5分休憩をとったら
お部屋の中でいきなり、スライディングを始めます。
じきに叱れちゃいそう?!

「ね、私のところにスライディングしてきて」
『え?!』
「ほら、来て!」
シュ~~~~~~ッ!!!!!

私は、私の体をいっぱいに広げて、彼のスライディングを受け止めます。
「キャッチー!!」

「ぼくも~」
「俺も~」

たった5分間だけど、「楽しい時間」は
あっという間に絆を結びます。

あんなにジッとしていられない・黙っていられない子たちも
私の話す声に注目をしてくれます。
私が見る目を見つめてくれます。

たったこれだけで・・・

余計に切なくなります。

たったこれだけが、ないんだね・・・

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学級満足度と先生

たくさんの学校で、たくさんの子どもたちと先生方を
見てきました。

どこの学校にいっても、心の底から感動し、頭の下がる
すばらしい先生がいらっしゃいます。

ワークショップ終了後に子どもたちと話す際に
「学校は安心ですか?」と尋ねると
ほとんどの子どもたちが間髪入れずに「うん!」と
思わず答えます。 考える必要性もなく、楽しいと
感じているみたいです。もちろん、思わず絶句する
子どももいますよ! それは当たり前ですね。

さて、すてきな先生のお話をしましょう。

学校で特に目立つという先生でもありません。
ごく普通の方です。
ただ指示は明確だし、とても楽しそうに
子どもと過ごされています。

家庭の状況はさまざまな子どもたちがいることも
よく把握されています。

この先生は、教室に貸し出しグッズをたくさん
用意なさっています。

筆箱
鉛筆
ハサミ
スティックのり
ランチョンマット
などなど

家族が子どもの教育をサポートできない状況の子どもも
多くなっています。 できないのに「なぜ、持ってこなかったの?」「親には伝えたの?」「親ができないなら、自分でなさい」など言われると、子どもは本当に行き場のない思いにかられます。 学校に行きたくなくなります。

「あ、先生、忘れました。貸してください。」
「はい、どうぞ」
「先生ありがとうございます。」

そんな前向きな会話が飛び交います。

音読の宿題は、親にサインをしてもらいなさい、という
学級が多いですね?
でも、それさえ困難な子どもが増えてきました。
この先生は、子どもに嘘をつかせたくありません、と
おっしゃいます。私も同感です。

だからサインは「兄でも、妹、でもいいよ」
とおっしゃっています。

宿題をしてこなかった子どもには
課題が課せられます。それは先生の肩もみです。
先生の肩を後ろからタッチできます。
先生の後ろから、「あのね、昨日ね・・・」とか
「本当はね・・・」という心から話したいことが
聞こえてくるそうです。

子どもたちが言っていました。
「僕はね、この1年ですごく成長したんだよ。」と。

すばらしい・・
学校に満足することで、どれほどのことを
子どもたちは学ぶことか!

私たちもまた、このようなすばらしい先生方との
出会いをもらうことで、学ばせてもらっています。

先生、ありがとうございます。感謝!

 

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